たぶん256階調

日記とメモ.

漂う/揺蕩う



「私」でありながら記憶の持続が難しい時間や時期は、どうも焦燥感に駆られたり擬似的な死を恐れているらしい。

ということを、自分が書いた記事を読んで把握した。


この時間帯は、記憶の引き出しをスムーズに開け閉めしやすい傾向にある。
ただ、感情は伴わない。
たとえば今は、どうして私が必死にあの記事を書いていたのか、理解が出来ない。




緩やかに擬似的な死へ向かう。
いいじゃないか、それで。
私は何も見たくないし知りたくないし感じたくない。
何よりこんな生活を投げ出したいと思っている。


欠落だらけの日々の積み重ね。
そんなものを人生と呼ぶのか?
ふざけているか、狂気の沙汰だ。




限りなく薄くなりたい。
私を認識することもなく、私が認識することもない。
私が認識されることも、それを認識することもない。


そんな世界を、私は望んでいる。





薄く、薄くなって、それから



最近の私は記憶力が低下しすぎている。



今食べている飴玉をいつ口に入れたのか。
朝は何時に起きたのか、それから何をしていたのか。
昨日はどんな日だったか、何をしていたのか。

どれを思い出そうとしても上手くいかない。
頭の中に靄がかかっていて、上手く見えない。



焦燥感に駆られ、各記録をチェックする日々。

最近はそれをすると、内臓がどうも気持ち悪くなってしまう。
しかし学習しないので(この感覚すらも忘れてしまうので)、同じことを繰り返している。



この記事を書いている今も、時折ぼーっとしてしまう。
焦燥感に駆られ、また思い出すところから始めている。

学習しないな。
それとも、まだ「思い出して生活を繋げる」意識は残っている?



記録を残すことをやめたら。
思い出せる要素がなくなるのだろうか。

おまけに他者との関わりも絶ってしまったら。
本格的に沢山のことを忘れてしまうのだろうか。


忘れていることすらも、わからなくなるのだろうか。



自分という存在の認識。
世界を認識出来ている感覚。
自分が生きているという確信。
世界が今日も回っているという喜び。


そういうものが、薄く、薄くなっていく。



その先にあるのは、死に酷似した状態ではないかと思う。
私は今、緩やかに死を迎えているのかもしれない。


だからこんなに焦っているのかもしれない。
焦りながら、文字を打っている。
少しだけ、薄れていたはずのものが戻ってくるから。




私はたぶん。
少なくともこんなふうには、死にたくない。



喜ぶべきか、残念がるべきか。




月曜p.m. 恋情≠評価



心身ともに酷く疲れていると、愛されたいと思うことがよくある。
今夜もそうだった。


過去の私の方が愛されているのはどうして。
成長していこうと努力している今の私は愛されていないのに。
どうして、こんなに頑張っているのに。


もちろん、周りに居るひとたちからは、いつも沢山のあたたかい愛情をもらっている。
その一方で、こういう時の私は、狂おしいほどの恋情を向けられることを渇望している。
かといって、普段の自分の恋愛観はそれからは程遠い。
これはどういうことなのだろうと考えていたら、少しだけ見えてきた。



まず、私が「狂おしいほどの恋情を向けられることを渇望する」のは、心身ともに酷く疲れている時だ。
自分で自分を褒めても、誰に肯定されても、何かが足りない気がして、酷い渇きを感じてしまう。
その何かというのは、もしかすると『評価』なのでは?と考えた。


人生における大抵のことは、世間一般的に評価されることではない。
極端に言えば、朝起きたとかご飯を食べたとか入浴したとか、そういうことで表彰などはされない。
そんな当たり前のことを当たり前に続けるのは、とても大変なことなのにね。


私の場合は、世間一般的に褒められるような人生や生活は送っていない。現にここ数年は精神科病棟にいることが一年の半分を占めているし、マトモな社会人をしたことがあるわけでもない。
それでも私は私のペースで課題や病気と向き合っているし、それなりに暮らしている。


しかし、こういう暮らしにも、日々つらいことは沢山ある。
私には私のつらさがあって、その上で藻掻きながら成長しようと努力している。
だから当たり前に、心が折れそうになることだってある。



そういう時に『世間一般的に評価されることのない自分を評価してくれるもの』というのが、恋情しかないのではないかと、今日まで勘違いをしていた。


ということに、ようやく気づいた。


私にとって「狂おしいほどの恋情を向けられること」は、表彰式で貰えるメダルと同じだったのだ。
評価されないような小さな頑張りも葛藤もつらさも、私は認めて欲しかったのだとわかった。
そしてそれを認めてもらうためには、自分に心底惚れ込んでいる人間が必要だと思っていた。


しかし恋情というのは本来、少なくとも相手を『評価』するものではない。
相手の幸せを願えたり、お互いを補えたり、一緒に歩んでいけることだと私は思う。


それに、私なりの暮らしを認めてくれて「がんばったね」と言ってくれるひとは、ありがたいことに既にたくさん居る。
認められてない・見守られていない、そんなものは私の勘違いだった。


しかも、そんな勘違いから私はずっと、意味もわからずに愛されたいと泣いていたのだ。



評価。

評価というのは、何かの価値を定めること。
私は誰かに「どんな私にも価値がある」とも言われたいのかもしれない。

この点についてはまだあまり見えていないので、また整理が出来たら書こうと思う。



今日この記事を書いて、「まあ別に恋愛的に愛されなくとも大丈夫だなあ」と思えた。


また少し進めたのだと、信じたい。



日曜p.m. 気づきとぬくもり



最近はすごく、苦しかった。


余裕がない時に優しくされても、優しく受け止められない自分が居る。
それを認めなかったり許せなかったりすることが、一番苦しかった。


苦しくて、苦しくて、どうにか昇華したかった。
とりあえず、短い漫画にでもしてみようと思った。


描き終えて、少しすっきりした。
問題視することをやめると、楽になるらしい。
「そういうこともあるよね」「そういう自分もいるよね」と、自分を認めたり許したりする一歩になるからだと思う。





それから数十分後。



「自分めちゃくちゃ頑張ったのでは…?えらくない?えらすぎる。自分じゃ褒め足りないな、褒められたい!」という気持ちになってきた。


もう子供でもないのに、頑張ったから褒めて!なんて、ひとに言ってもいいのだろうか。

そう思いつつ、試しに何人かの友人に「頑張ったよ!褒めて!」とメッセージを送ってみた。



すると意外なことに、みんな褒めてくれた。


えらい!
えらすぎる!
日本一!
宇宙一!


と言った具合に。(ありがとうございます…。



ずっとずっと、自分の頑張りを誰かに褒めて欲しかった。
それでも今日までは、頑張ったから褒めて欲しいとは言えなかった。

だから本当に拍子抜けした。
少し勇気を出すだけで、こんなことが起こるなんてね。


私が思っているよりもずっと、みんなは暖かいのだと再認識できたことが、何よりもうれしい。


みんなのぬくもりが、本当に染みた。



ひとりじゃないし、みんながいる。
しかも、みんな最高で。

そんなひとたちが私を認めてくれているのだから、私も、もしかするとそんなに悪いヤツじゃないのかも。



元気、いただきました。
ありがとうを伝えるには、言葉では不自由だなあ。

金曜p.m. 彩られる空間

 

 

公園でぼんやりしていた。

私はフリスクを、古い友人は紅茶を片手に。

「せっかくですから、何か聴きませんか」

 

「音楽があるだけでここがもっと特別な空間になりますね」

 

ビートルズを流していると、ふとそんなつぶやきが聞こえた。

たしかに、そうだなあ。

そのままの公園ももちろん素敵なのだけど。

ここにすら音楽の可能性は無限に広がっている。

そう思うと、心が軽やかになった。

 

 

I Will ~という歌声に、ほんの少しの希望が込められていた。

そんな午後。

 

 

水曜p.m. 天然イルミネーション

 

 

日が落ちたあたりから、雨が降り始めた。

しとしと……ぽたぽたたっ……

今夜は、こんな音。

 

雨音を聴いていると、とても落ち着く。

 

 

せっかくなので、夜ではあるけれどカーテンを開けた。

窓に不時着した雫たちが、こちら側の明るさを反射している。

 

天然イルミネーション、とでも名付けてしまおう。

ここだけの、今夜限りの。

 

 

火曜a.m. 青春と珈琲




深夜、長年付き合いのある友人と、青春について話していた。



>>青春は後になってわかるもので、後から「あの頃は青春だった」と思えればそれは青春だし、でももっと後で「やっぱりあれは青春じゃなかった」と思う可能性もあるよね<<


なるほど?

今や未来もいつか青春になる可能性を秘めていて、何を青春と定義するかによっては何歳になっても青春を甘酸っぱいと思うことが出来る……ということでもあるのかもしれない。




~は青春だった。

甘酸っぺえ~!!


それだけの会話を繰り返した。
不安も恐れも全て甘酸っぱさで満たした。


その間にも友人との青春にも、いつも珈琲があったな。
ふと、そう思った火曜の朝。