たぶん256階調

日記とメモ.

月曜p.m. 恋情≠評価



心身ともに酷く疲れていると、愛されたいと思うことがよくある。
今夜もそうだった。


過去の私の方が愛されているのはどうして。
成長していこうと努力している今の私は愛されていないのに。
どうして、こんなに頑張っているのに。


もちろん、周りに居るひとたちからは、いつも沢山のあたたかい愛情をもらっている。
その一方で、こういう時の私は、狂おしいほどの恋情を向けられることを渇望している。
かといって、普段の自分の恋愛観はそれからは程遠い。
これはどういうことなのだろうと考えていたら、少しだけ見えてきた。



まず、私が「狂おしいほどの恋情を向けられることを渇望する」のは、心身ともに酷く疲れている時だ。
自分で自分を褒めても、誰に肯定されても、何かが足りない気がして、酷い渇きを感じてしまう。
その何かというのは、もしかすると『評価』なのでは?と考えた。


人生における大抵のことは、世間一般的に評価されることではない。
極端に言えば、朝起きたとかご飯を食べたとか入浴したとか、そういうことで表彰などはされない。
そんな当たり前のことを当たり前に続けるのは、とても大変なことなのにね。


私の場合は、世間一般的に褒められるような人生や生活は送っていない。現にここ数年は精神科病棟にいることが一年の半分を占めているし、マトモな社会人をしたことがあるわけでもない。
それでも私は私のペースで課題や病気と向き合っているし、それなりに暮らしている。


しかし、こういう暮らしにも、日々つらいことは沢山ある。
私には私のつらさがあって、その上で藻掻きながら成長しようと努力している。
だから当たり前に、心が折れそうになることだってある。



そういう時に『世間一般的に評価されることのない自分を評価してくれるもの』というのが、恋情しかないのではないかと、今日まで勘違いをしていた。


ということに、ようやく気づいた。


私にとって「狂おしいほどの恋情を向けられること」は、表彰式で貰えるメダルと同じだったのだ。
評価されないような小さな頑張りも葛藤もつらさも、私は認めて欲しかったのだとわかった。
そしてそれを認めてもらうためには、自分に心底惚れ込んでいる人間が必要だと思っていた。


しかし恋情というのは本来、少なくとも相手を『評価』するものではない。
相手の幸せを願えたり、お互いを補えたり、一緒に歩んでいけることだと私は思う。


それに、私なりの暮らしを認めてくれて「がんばったね」と言ってくれるひとは、ありがたいことに既にたくさん居る。
認められてない・見守られていない、そんなものは私の勘違いだった。


しかも、そんな勘違いから私はずっと、意味もわからずに愛されたいと泣いていたのだ。



評価。

評価というのは、何かの価値を定めること。
私は誰かに「どんな私にも価値がある」とも言われたいのかもしれない。

この点についてはまだあまり見えていないので、また整理が出来たら書こうと思う。



今日この記事を書いて、「まあ別に恋愛的に愛されなくとも大丈夫だなあ」と思えた。


また少し進めたのだと、信じたい。